2018年5月24日


第三回:
製作者不明/ヨーロッパ輸入工作機械セールスキット(1970年-80年代)

自画像



1970年~80年代の、輸入工作機械セールスキット。いくたびの大掃除、引っ越しをかろうじて生き残った幸運なビンテージ・アイテム。ぶあついとびきり上質の印画紙に、おそらくプロの手に因る構図のばっちりきまった、生まれながらにしてどこかに連れて行ってもらうため、最近久しく見かけることのない、なつかしい“よそ行き”プリントが、マシンオイルもはじく全天候型のファイルに、隙なくぴったりとじられる。個別具体的な加工データの分類や項目数の多さとその内容はもとより、建屋の全景、街のスナップ、いまにも何かいいだしそうな人物ショットなど、その気ならば、(あくまでもその気があれば)いくらでもストーリーラインが組み立てられそうな気合十分の良質素材。

もちろん、その上等な部材クオリティに加え、それなりの情報量となるからして、束ねた重量としては、準備段階での10Kg越えはあっという間。それを、複数の販売を担うのであれば、何社分かを携えることが必須。それを顧客の視線のもと、どれだけの分量であろうが、その扱いはカードのように自由自在、難なく、優雅に、さらに語り口調もなめらかで、興味に満ちておもしろくなければその指にハトは止まらず、またそのシルクハットから何がとびだすのか、の期待がなければ、投げ銭は頂戴できない。マジシャン、、そんな使い手の自己陶酔ぎみの自画像。。

当然、重いカバンを、あたかも手錠でつながれた脱獄者同士のように、肌身はなれず、遠い旅程であろうがなかろうが、関節がどうにかなりそうでも、つきあわなければならなかっただろう。なんとかならないか。。。「重いカバンで自分が何をしたいかではない、相手がどうしたいかだろう・・」少数派でもなさそうな、そんな合理的精神の持ち主は、事情も重なったりすれば、当然それからの解放を望んだかもしれない。

なんとか気の利いた会話で、うまくお茶を濁そうとする者、重い手かせがわりと言ってはなんですが、フットワークよい日参を得意技にする者、売りたいものなどない、顧客が買いたいものを伺うだけだ等々、よく聞く“顧客目線のセールス自画像”が、だんだん主流になっていっていった理由のひとつは、これだろうか??

「そうそう!セールスって、技術の知識じゃなくて・・・だいたいお客さんのほうが詳しいんだよ。そういう、、あれがうまいのが、セールステクニックだよ!!」と、会社に帰れば、よその部門が、その流儀を、なんともあいまいにも猛烈に支持。だから言われたほうも「誉められた?」と、ほっと胸をなでおろすどころか、妙に自信を深めてご満悦。。

だが、じつは話し手の真意はそこにはなかったりする。セールスがいかに“その程度”か、をリマインドさせるため、“セールスじゃない部門の、自分たちこそが成果に貢献している”ことを、そうとは言わないでほのめかす、つまり社内政治パワーバランスの天秤を、ひとつひとつラチェットをカチッと鳴らして、逆戻りしない自分側に回すための、ちょっとひねった、称賛に姿を借りた「ほめごろし」だったりする。。。ひとつの成果を「気分的に山分け」するときに、つい無意識に相手側の分銅を軽くしてしまいたい、かわいい意地悪、わるぎない人間的な自己防衛機能。。。こんな感じで、セールスは“すこしなめられる”存在であったほうがよく、だからWIN-WINで、この自画像はいまだすたれないのか??

でも、この自画像、「顧客に目線を合わせてでも仲良くなりたい」のはつねに売り手であって、買い手ではないんですけど。その時間と、そのフットワークの足代になる原資は、結局だれが払うの???そんな本音をグッとこらえて、おつきあいいただいているのは、とりもなおさず顧客。。

顧客目線という単語、思考停止させ(され)やすい。。それが売り手の自画像でしかないのであれば、40年前の自己完結マジシャンよりも、リハーサル不足と、社内政治で乗せられてしまった結果、これといったスキルが頼りない分、すくなくとも本人が考えるよりは、むしろおどろくほど、相手から手前勝手にみえているだろう。。

 ◀ 第二回 奇襲  第四回 無言劇 ▶