2018年4月12日

   :狼煙は上がった/ブラック・バッファローの衝撃
    ㈱童夢ホールディングス 林みのる氏より、「かなりおおげさだが」との評価のもと、「どうぞ」と掲載承認済み





985年の鈴鹿。当時ブームの最中にあった鈴鹿8時間耐久オートバイレース。とある特異な外観をもつ1台が注目を集める。“ブラック・バッファロー”と命名されたそれは、なんと世界中で例を見ないカーボン・モノコック構造のフレーム。オートバイ自体、デザインの自由度が低く、類型的なデザインが多い中でのそのいでたち。さらに、なんとそのエントラント名は“童夢”。同じモーターレーシングとはいえ、童夢-零から一貫してたどる同社の軌跡は、レーシングカー・コンストラクター。イコール四輪レース。そのイメージしか浮かばない全員にとって、すべてが驚きであった。

 ブラックバッファロー  ストリップ
   
   
 


 外観  カーボンフレーム
 卵の殻のようなカウリングは、
空力への考慮をことさら印象付ける

 転倒してもダメージがなく、高剛性が長寿命
に寄与することを確認
   
 



980年代初頭から、ヨーロッパの四輪レース界では、軽量高剛性というレーシングカーに要求される特性に優れたカーボン・モノコック構造が普及し始めており、F1レーシングカー・コンストラクター、マクラーレンが、アメリカ・ハーキュリーズ社の製造による、カーボンにアルミハニカムを挟んだカーボン・モノコックを、フォーミュラ1カーMP4/1に採用して話題となった。

1978年の童夢-零が生み出した林氏への成果は、それが市販化されての絶好調なセールスによるリターン、ではまったくなく、ひょうたんから駒、スーパーカーブームの中心にいた小学生に大人気となった童夢-零関連のラジコンカー、プラモデル、学習用品などのおもちゃメーカーからの当時3憶円にも上るロイヤリティ。

     
     
     


もっけの幸いと、それをルマン24時間レースカー参戦のための、レーシングカー開発・製造へ注ぎ込み、計画が狂う予定の計画書を作成し、強引に参戦、しかも食いつなぎにすら「もやはこれまで」を何度もくぐり抜けての継続参戦が数年続く。



-零の衝撃的な、だが期待に反して首尾よくとはいかなかったその後は、このように辛うじて、この数年だけでも一冊の本になるような、冒険気質とユニークなアイデアによって、何とか「次」に繋ぎ続け、ついに1984年からは、トヨタ自動車のグループCカーの開発・設計を担うまでとなった。

 童夢RL 1979年  トヨタ童夢セリカC 1982年  童夢84C 1984年
 おもちゃの版権費でさっそく自費製作。
ルマンへ。以後も自作・自費参戦が続く
 トヨタ・セリカ宣伝費の条件として、
セリカの恰好をしてなければならなかった
 セリカの条件がなくなり、本格的グループ
Cカーの開発・設計をトヨタから受託
     
 


その独自参戦時代を通し、すでに数年に渡るルマン24時間レースといった海外四輪レース経験を有し、その事情に誰よりも長けていた林氏は、早期よりカーボン・モノコック製レーシングカーへの開発着手を、トヨタ自動車へ提案。ただし、四輪モーターレーシングが、トヨタ自動車でさえ、オイルショック以後ようやく、まだまだマーケティング活動からの少予算で、小グループで執り行われていた当時、カーボン・モノコックのような斬新な手法への舵取りは尚早、との判断となっていた。

だが、林氏は、(やはりいつものように)自ら事を始める。それが1985年。

 

「いきなり自力で4輪のシャシーをカーボンで作るなんて、いくらなんでもうちには出来ない。でも何かやらないと世界に取り残される。では試しにバイクを作ろうということになった。バイクを走らせたかったわけではなくて、カーボンの実験をしたかった。バイクなら小さいから安いだろうという発想だった。だから実際に設計して、型を作って、成形して実物走らせて、どういう障害や弊害が出るのか、耐久性はどうなのかを調べた」

 
だが、実験とはいえ、決してアカデミックなマインドいっぱいで事に挑んでいたのではなく、裏庭で自作レーシングカーを作る、いわゆるバックヤード・ビルダー出身の林氏らしいエピソードもある。

 

「ライダーが予選で転倒して破損。でも壊れない。さすがカーボン、これは頑丈だと喜んでいたら、ガソリンタンクがどこかに吹っ飛んでいって行方不明に。途方に暮れた決勝前日の夜中に、タンクを拾った人がわざわざ届けに来てくれたおかげで決勝に進出できた」
 

際に走らせてみたところ、軽量高剛性が強みのカーボン・モノコック構造であるが、オートバイのコーナリングは、フレームを適度にしならせる必要があり、カーボン・モノコック構造のあまりの高剛性がゆえ、「バイクが曲がらない」というマイナスに働く興味深い事実が発見される。したがって、スイングアーム部のみをアルミに変更。素材の特性が、完成品の特性に合致するところ、しないところがある、つまり「万事、良いとこ取り」はできない、という本質を早期に掴んでいることは象徴的だ。

この出来事は、カーボンそのものに異素材を接合し相乗効果を得る、カーボン・コンポジット部品の基本コンセプトにも通じる。それには異素材同士をいかにうまく接合するかという加工ノウハウも必要。後の「カーボン成形屋」にとどまらない、カーボンコンポジット・コンストラクター、カーボン・スペシャリストとして名を馳せる、いかにもといった、第一歩のエピソードだ。


レースで目立った成績は残せなかったが、林氏にとって成績は二の次。将来的にレーシングカー製造に主流になっていくであろうカーボン・コンポジットを自前の技術で成立させられるかの実験が目的であったからだ。

カーボン・モノコックは、完成してしまえば外見からの品質の優劣は判断しにくいが、ハニカムのカーボンスキンの接着、インサート部品の固定、繊維の方向など、ノウハウのかたまり。バイクを起点とする林氏のカーボン・コンポジット製造技術は、次に本来の四輪レーシングカーへ応用されていくことになるのだが…

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